愛されたいと思うばかりで、愛することを忘れていないか?
周囲の人に愛されようとして疲れていませんか?
この質問をされて、ドキッとする人、けっこういると思うんです。とくに、僕らのような貧困予備軍、貧乏人は誰かに認められたい、必要とされたい、愛されたいという気持ちが強い。
気持ちは痛いほど分かります。
非正規雇用は5人に2人の時代だし、給料、時給は上がらないし、経済成長なんて夢のまた夢です。上司が自分の頑張りを認めてくれれば報われるけど、そんな事はまったくない。
むしろ、認めてほしい、なんて言うものなら、「はぁ?何言っての?甘えるんじゃねぇよ」とか言われちゃう。
こんな世の中に生きていると、「俺(私)の気持ち分かってくれよぉ~、頑張ってるじゃん!」と、叫びたくなってしまうのが自然です。
でもね、よくよく考えてみると、みんなが愛されたがっている状態ってけっこう危険なんですよ。だってそうでしょ?欲しい、欲しい、と思っている人ばかりで、与えたいと思う人がいないんですよ?
このままだと、与えたい、愛したいと思う人は、絶滅するんじゃないか?と心配になっちゃいます。
昔、山本周五郎っていう作家の小説を読んでいる時、こんなセリフが出て来ました。
バカがいなきゃ利口がたたねぇ、みんなが医者になったら、誰が患者になるんだい?
なかなか良いセリフですよね?
要するに、不器用で馬鹿な奴でも、ちゃんと人の役に立ってるんだから、無理に利口な人になろうとしなくてもいいんだよ、って事を山本周五郎は言いたかったんだと思うんです。
しかし、認めれたい、もっと欲しい、愛されたいと思う人が増える現代は、みんなが寄ってたかって利口な人になろうとしています。
まるで、利口な人にならないと価値がないかのように・・・
ここは一つ、考えてみましょう。
愛されたいと思うばかりで、愛することを忘れないためにはどうすればいいのか?
『生きる意味はある!』と言ったV・Eフランクルに聴いてみよう
- 作者: V.E.フランクル,霜山徳爾
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1985/01/22
- メディア: 単行本
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V・Eフランクルという人を知っていますか?
今日はフランクルが言った言葉をじっくり考えてみたいと思うんです。
知らない人のために、ご紹介。
第二次大戦下、ナチスによって強制収容所に送られ、妻を始め家族の多くを失う。
そんな悲惨な状況にいながらも、「生きる意味はある!」と訴え続ける。戦後生き残ったフランクルは、自身の体験を活かして、誰もが生きる意味をみつける手伝いをする事を目的とした「ロゴセラピー」を考える。
ナチスの強制収容所にいながら、フランクルは「なぜ、それでも生きる意味がある!」と、断言出来たのか?。この問いは、多くの人の探求心を刺激しました。
どう考えても絶望しますよね?僕だったら絶望します(笑)
でも、フランクルはしなかった。そこに、愛されたいと思うばかりで、愛することを忘れないためのヒントがあると僕は考えたわけです。
愛されている人間は役に立たなくても、かけがえがない
戦後、多くの講演会に呼ばれるようになったフランクルは、生きる意味の話しをよくしました。その中で、本に載っている印象に残っているエピソードを引用したいと思います。
不治の患者はもう人間社会の役に立たないから、不治の患者の救済は「非生産的」だという事実です。それについては、つぎのことを銘記すべきでしょう。
社会の役に立つということは、人間存在を測ることができる唯一のものさしでは絶対にないということです。
(中略)精神薄弱の人たちは、精神病院に入れられ、そこで、レンガを積んだ手押し車を押したり、食器洗いを手伝ったりして、単純作業をしています。
この人たちは、たとえば、私たちの祖父母よりずっと役に立ち生産的なのです。
私たちの祖父母は、たいへん「非生産的に」晩年を過ごしています。
家にいて、ほとんど歩けず、窓際の肘掛いすに座って、うつらうつらしているおばあさんは、たいへん非生産的な生活を送っています。
それでも子供や孫の愛情に囲まれ包まれています。
このような愛情に包まれてこそ、うちのおばあちゃんなのです。うちのおばあちゃんである彼女は、このような愛情に包まれて、代理不可能でかけがえのない存在なのです。
まだ職業を持って仕事をしている人が、共同体に関与する行ないで、代理不可能でかけがえのない存在になるのとまったく同じことなのです。
どうでしょうか?フランクルの言葉の中に、「愛されようと思いすぎて、すでに愛されている事を忘れていないか?」というメッセージを感じ取る事が出来ます。
で、こんな事を書くと、必ず批判して来る人がいると思うんです。たとえば、こんな感じ。
「はぁ?自己啓発本の読みすぎじゃねぇの?誰も愛してくれる人がいない婆ちゃんだっているだろう?そんな人はどうするんだよ?バカめ!」
う~ん、確かに、そうなんですよね、今、老人ホームなんかでも老人をホームに入れっぱなしで全然来ない家族が問題になっています。
ちょっと、最後に考えてみましょう。
誰かを愛する事で、その人を価値ある人に出来る!
実は、誰にも愛されないお婆ちゃん問題は、僕もどうすればいいのか解りません。ごめんなさい(笑)
しかし、フランクルの言葉を借りれば、「子供や孫の愛情に囲まれているお婆ちゃんが生産的で代理不可能な存在」になるのであれば、お婆ちゃんを愛する子供も孫もまた代理不可能な生産的な存在である、という事です。
だって、そうじゃないですか?そのお婆ちゃんに価値を与えているのは、子供や孫なんだから!
ここに、我々のような貧乏人、貧困予備軍が与える側、愛する側になれる可能性を感じます。
キツイかもしれない、苦しいかもしれないけど、気合いで与える側になってみる、愛する側になってみる。
なぜなら、あなたが与えた、愛した瞬間から、その人は価値があって、生産的で、代理不可能な存在になったんだから!
う~ん、なんか物凄い、ロマンチックで恥ずかしい事を書いちゃったなぁ~(笑)
でも、せっかく書いたので、公開します。
共に愛する側になろうではないか?!