相対的貧困は何が問題なのか、一緒に考えてみませんか?
突然ですが、相対的貧困という言葉を知っていますか?
知らない人のために、ちょっと説明させてください。
一般的に、貧困には二種類ある、と言われています。
一つは、「絶対的貧困」
「絶対的貧困」とは、飢えに苦しむアジアやアフリカの子供達のように「生きるか死ぬか」というレベルでの貧しさを意味します。
国連では、1日2ドル未満の生活を「絶対的貧困」と定義しています。
二つ目は、「相対的貧困」
今の日本の社会で問題になっているのは、主にこの「相対的貧困」です。
「相対的」とは、「他と比べてどうか?」という意味。
人はみんな社会の一員として生きていています。
「相対的貧困」は、僕らが所属している社会の中で、周りと比べて、その人の暮らしは人間らしい暮らしと言えるのだろうか?、という問いを持っているわけです。
まとめると、こういうこと↓
【絶対的貧困】・・・人間として生きて行くのが困難な状態(発展途上国)
【相対的貧困】・・・その社会のメンバーとして生きて行くのが困難な状態(先進国)
さぁ、なんとなく「相対的貧困」を理解して頂けたでしょうか?
僕は、よく飲み会や交流会などで、自己紹介をする時、貧困問題をテーマにしている当ブログの事を語ります。
そして、このブログの事を説明すると、よくこんな質問をされる。
「日本の貧困は何が問題になっているんですか?」
僕としては、日本の貧困問題に興味を持ってもらうのは嬉しい事なので、なるべく丁寧に上記に書いたような「絶対的貧困」と「相対的貧困」の違いを説明をします。
しかし、僕が「今の日本は、相対的貧困の問題が大きくなっているんですよ」と話し終わった瞬間に必ずと言っていいほど、二つ目の以下の質問が飛んで来る。
『えっ?、それって何が問題なんですか?
確かに、絶対的貧困は生きるか死ぬかなので、深刻な問題だと思います。
でも、相対的貧困は人と比べてどうか?って事なんでしょ?、そんなの比べても仕方がないと思うんですよ
格差はいつの時代にもあったし、贅沢を言ってたら、きりがないでしょ?』
はい、この二つ目の質問、本当に最近、よく聞かれるんですよ
確かに、死ぬわけじゃないんだから、そこまで問題にする事じゃない、という気持ちはよく解る。
しかし、僕はそれでも「相対的貧困」は問題である、と断言したい
今日はその理由をじっくりとご説明したいと思います。
理由は大きく分けて、二つあります。
その1・相対的貧困は絶対的貧困の予備軍だから問題だ
こんなふうに言ったら、皆さんはどう思うでしょうか?
僕は、より貧困問題を解りやすく伝えるために、いつも以下のように説明しています
相対的貧困=貧乏
絶対的貧困=貧困
貧乏と貧困は違います。
年収200万円ぐらいの非正規でも、健康で、仲間がたくさんいて頼る人がいたり、親と仲が良くて実家暮らしだったり、それなりにまとまった貯金があったりすれば、貧乏かもしれないけど貧困ではありません。
貧困とは、不健康で、仲間もいない、親とも仲が悪い、貯金もまったく無い、本当に誰にも頼る事の出来ない状態を言うのです。
貧困になってしまうと、最終的には、生活保護に頼るしかありません。
さて、こんな事を言うと、きっと、「ほら?、やっぱり相対的貧困は貧乏だから問題ないじゃん!」と言う人がいるかもしれない。
ところが、大問題なんです。
ちょっと想像してみてください。
あなたの友達にA君(20代後半)という青年がいたとしましょう。
A君は、フリーターです。廃品回収、コンビニバイト、塾の講師などの仕事を掛け持ちして、年収300万円の収入を得ています。
仲間はいますが、親との関係は悪く連絡を取っていません。貯金もそんなにない。
しかし、A君は将来を不安に思う事はなく、あっさりとこんなふうに言います。
「貧乏だけど、気にしてない、お金が無いと生きていけない、って言うのは幻想だよね、お金が無いと生きて行けないって訴える人は、単純に贅沢なだけでしょ!」
ところが、ある日、事態は一変します
A君は、廃品回収の仕事をしている時、腰を強打し、痛みでそのまま動かなくなってしまいます。すぐに医者に見せると、全治半年と言われ、絶対安静の指示を受けました。
さぁ、さすがのA君も慌てます。仕事を休まなくてはいけないからです。
貯金は数か月やって行くぐらいしかありません。親も仲が悪くて頼れない。
そこで、A君は仲間に助けを求めます。結果、仲間達の救済募金で数万円集まりました。
しかし、半年分の治療費+食費、家賃、スマホ代などの事を考えると、まだまだ足りない。
A君は、仕方なく生活保護を検討する事になります。
ここまで、A君のエピソードを読んで、皆さんはどう思ったでしょうか?
きっと、「生活保護があって良かったね」と言う感想を持つ人もいれば、「ちょっとしたアクシデントで生活保護に頼らなければならないなんて、恐ろしい」と思った人もいるでしょう。
僕の考えを書いておきます
腰を怪我する前のA君は相対的貧困状態でした。家もあるし、仕事もあるし、仲間もいる。
貧乏ではあるけれど、ホームレスやネットカフェ難民というわけじゃなかった。
だから、贅沢を望まなければ生きて行く事が出来た。
けれど、腰を痛めるというたった一つのアクシデントによって、A君は生活保護を使わなければいけない状態に追い込まれ、限りなく絶対的貧困状態に近づいてしまった、と僕は思うんです。
こんな事を考えて行くと、僕はある一つの結論に辿り着きます。
だからこそ、相対的貧困は問題なんです
先ほど、貧困とは、不健康で、仲間もいない、親とも仲が悪い、貯金もまったく無い、本当に誰にも頼る事の出来ない状態である、とお伝えしました。
これは逆に言えば、健康、仲間、親、貯金のどれかを失えば、誰でも絶対的貧困状態になる可能性がある、と言う事です。
ですので、繰り返しになりますが、もう一度言います。
その2・今後、格差はどんどん広がって行く可能性があるから問題だ
冒頭で、相対的貧困とは、「他と比べてどうか?」という問いを持っている、とお伝えしました。
その社会のメンバーとして生きて行くのが困難な状態である、とも言いました。
要するに、格差の問題ですね、その2では、格差の問題について考えて行きましょう。
よく相対的貧困の説明すると、「人と比べてもしょうがないでしょ?、格差はいつの時代もあったし、贅沢言い出したら、きりが無いでしょ!」と、怒られる事があります。
きっと、そうやって怒る人の心理を想像すると、次のような意見になるのではないでしょうか?
「たとえば、貧乏なのに、古いデザインのスマホじゃなくて、最新モデルのスマホがいいとか、中古のパソコンじゃなくて、最新のMacがいいとか、そういう事を比べる事が相対的貧困なら、それは、はっきり言って単なる贅沢でしょ?、しょうがないじゃん」
この意見については、僕も賛成です。しかし、僕が相対的貧困の観点から問題視する「格差」は、そういう事ではありません。
もう一度、冒頭の文章を思い出してください。
その社会のメンバーとして生きて行くのが困難な状態を相対的貧困状態である、と説明しました。
では、その社会のメンバーとして生きて行くのに、何が必要でしょうか?
いろいろと思いつくと思いますが、ここでは医療を考えてみましょう。
誰もが病気になった時、医療を受けて、治療する事が出来る社会。僕たちの国は、そういう社会を目指して、実現させて来ました。
しかし、そういう誰もが当たり前に医療を受けれる社会が脅かされている、と言ったら皆さんは大袈裟だ、と笑うでしょうか?
実は、とても笑い話しで済ます事が出来ない社会が少しずつ忍び寄って来ています。
最近、社会学者たちの間で話題になっている2025年問題がそれです。
「2025年問題」とは、団塊ジュニア世代の親である団塊世代(1947年~49年生まれ)が、このタイミングで、ついに全員75歳以上の後期高齢者になり、少子高齢化が悪化するという問題です。
数字にすると、2025年には、国民の5人に1人が75歳以上、3人に1人が65歳以上になると言われています。
「2025年頃には、認知症の患者が急増し、認知症を患う老人達が市街地をうろつくようになる光景は当たり前になる」と、恐ろしい予言をする学者もいます。
このまま少子高齢化が進めば、日本の経済力はますます弱くなる。そして、それに伴い「格差」も深刻なレベルで広がって行くと、僕は考えています。
そうなると、医療を受けれる人達と医療を受けれない人達の差がはっきりと分かれて行く。
これこそが、相対的貧困の二つ目の問題点です。
今回は長くなるので、「では、どうすればいいのか?」という解決策は書かないでおきます。
しかし、まずは、相対的貧困が社会的な問題である事をしっかりと認識すること。
それが大切なんじゃないか、と思い、こんな記事を書いてみました。
ぜひ、皆さんのご意見を聴かせてください。
共に、相対的貧困を考えて行こうではないか?!