正義の味方は悪より悪だ、気をつけろ!
社会問題に興味を持つ意識高い系は、正義の味方思考が強い人だ。
こんなふうに思った事はありませんか?
実は、よく僕は正義の味方思考の強い人だ、と誤解される事があるんです。
それは、自分が貧困問題をテーマにブログを書いたり、貧困で苦しむ人達を支援するNPO団体にボランティアで参加している事と深く関係しています。
気持ちは解るんです。社会の大きな問題である貧困問題に注目しているぐらいだから、すごく正義感が強い人のイメージが浮んでくるのでしょう。
もっと大袈裟に言えば、僕の事を弱きを助け、悪を倒す、正義の人と思っている人すらいるかもしれません。
しかし、当たり前ですが、僕自身は正義の味方ではない。と言うよりも、もっと、はっきり言ってしまえば、正義の味方は大、大、大嫌いなんです。
理由は簡単。自分は悪くないと思っている正義の味方ほど、悪を超える悪を生む可能性があるからなんですよ。
このブログが始まった頃から読んでくれている読者の方は意外に思ったかもしれません。でも、真実です。
僕は貧困問題を支援的立場で語ったり、書いたりする時、つねに、正義の味方の視点になっていないか?を自問自答するようにしています。
そして、少しでも正義の味方的な視点で話したり、書いてしまった時は、すぐに訂正し、相手や読者に謝るようにして来ました。
それほど、正義の味方のような言動は危険だと考えているからです。
なぜ、そこまで気をつけているのか、ちょっとご説明しましょう。
善人と悪人の違い
親鸞(しんらん)という人をご存じでしょうか?
鎌倉時代の偉いお坊さんです。
彼が言った、こんな言葉が残っています。
善人でも救われるんだから、悪人だったら救われて当然だ
「はぁ?、意味解らなくない?逆だったら解るけど」と思われた方がいるでしょう。
確かに、悪人でも救われるんだから、善人だったら救われて当然だ、という言葉なら納得出来ます。
しかし、親鸞はあえて、逆にして言葉にしました。
なぜなのか?解りますか?
この言葉に僕が正義の味方を嫌う理由が隠れています。
答えを言いましょう。親鸞は、この世の中に本当の善人はいない、と考えていたんです。
私達はどんなに努力しても、人に迷惑をかけ、他人を傷つけ、つねに悪を引きずりながら暮らしています。
まったく誰にも迷惑をかけず、いっさい悪を行っていない人などいないって事です。
だから、もし誰かが自分を「善人」と考えたとしたなら、それは単に「自分が他人に迷惑な存在であることを、まったく意識していない人」という偽善者じゃないか、と親鸞は考えたんですね。
なので、親鸞は自分の悪に気づいた人、自分が他人に迷惑をかけていることを自覚し、つねに、その事に謝罪の気持ちを持ち続けている人のことを『悪人』と呼びました。
つまり、自覚のある人が『悪人』であって、自覚のない人が『善人』。そんなふうに考えると、『悪人』のほうが『善人』よりいいって事になります。
逆にしたのは、そういう論理があったからなんですよ。
どうでしょうか?なかなか鋭い考えですよね?
犯罪者を容認するのか?
ただ、親鸞のこの言葉を紹介すると、必ずこんなふうに反論して来る人がいます
「じゃあさ、犯罪もしょうがないってこと?、犯罪者を容認するわけ?」
いつの世にも、ツッコミをいれたくなる人はいるらしく(笑)、親鸞は、この質問に、ちゃんと答えています。
善人以外にも、自分が『悪人』であることを知っていながら、「仕方がないだろう」、「悪人であって何が悪い」と開き直る人もいるでしょう。
こういう人は、『偽悪者』である、と。
これは、要するに、簡単に言うと、犯罪者の事ですね。
一本の直線を描いて、そこに順番に『偽善者(自称善人)』、『悪人』、『偽悪者(犯罪者)』が並んでいる。
偽善者にもならず、偽悪者にもならず、真ん中の中途半端な『悪人』になるということ。
言いたい事がだんだんと解って来たのではないでしょうか?
僕は親鸞のこの言葉を知ってから、『正義の味方』の言動を嫌うようになりました。
なぜなら、『正義の味方』になるためには、『偽善者(自称善人)』にならなければいけないからです。
そんなふうに考えて行くと、ある意味、『正義の味方』は『悪』より『悪』である、と言えるのではないでしょうか?
だからこそ、僕らは、つねに自分に問うようにして行きましょう。
自分は、ちゃんと、『悪人』になれているか?、と。
自分もしょせんは『悪人』なのだから、自分の悪をあげつらって、他人のやっていることを一方的に非難することは出来ない。正義の味方は、かっこ悪い。
親鸞は現代人に、こう教えてくれているような気がします。
共に、『悪人』になろうではないか?!