優しさと甘えの違いが解らない人は、アドラーの『嫌われる勇気』を胸に刻め!
優しさと甘やかしの境界線ってどこなのか?って考えた事ないですか?
優しさとは、辞書的な意味で言うと、「他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである」という事。
この『情がこまやか』って、けっこう厄介だと思うんです。
想像してみてください。
たとえば、あなたの親友が精神を病んでしまったとします。
心配するあなたはなんとかして、その親友を助けたいと思うでしょう。
ある日、深夜に親友から電話が来ます。
あなたは、一瞬、電話に出るか迷ってしまう。
「うわ!電話が来た!明日、仕事で朝早いから、出たくないなぁ~」
でも、ここで電話に出なかったら、親友は何をするか解りません。
もしかしたら、リスカするかもしれない。
最悪、自殺の可能性だってある。
あなたは、仕方なく、電話に出ます。
結果、長時間、親友の愚痴や泣き言を聴くはめになり、朝、最悪のコンディションで仕事に向かう事になるんです。
これが、一ヶ月に一回の事だったら、まだ許容範囲ですよね。
でも、週一回、ましくは毎日続いたら、地獄です(笑)
支える事に悩むあなたへ
この場合、どうすればいいんでしょう?
この記事を読んでいる読者の方は、きっと、「それは、逆に、あなたがウツになっちゃうよ、親友のその子は甘えてると思う、深夜の電話に出ないほうがいいよ!」と、アドバイスするでしょうね
正解。模範解答です。
しかし、電話に出る事を辞めれません。
アドバイスの内容を頭では解っているんです。
でも、親友だし、数少ない友達だし、やっぱり無視する事なんて出来ない。
そんなふうに、考えてしまうんですね。
う~ん、こうなったら、外部の人は何も言う事が出来ない
ギブアップ、二人で勝手にやってくれって感じですよね(笑
これは、どんな時でも、必ず出て来る問題です。
ひきこもりの少年を何も言わず、温かく見守るべきか?しかし、それは甘やかしているだけで、優しさではないのではないか?
覚えの悪い新人に優しく教えたほうがいいのではないか?でも、それでは甘やかしているだけで、ますます出遅れて行くのではないか?
あるいは、DVを受けているのに、「でも、心配だから」とか言って、側にいてしまう女の子。
虐められているのに、逃げないで側にいる虐められっ子と似ている心理なのかもしれません。
このように考えて行くと、僕らは日々、無意識に優しさと甘やかしの境界線について思惑している事が解ります。
アドラーから介入と援助の違いを学ぼう!
解決策は無いように思います。
さっきも書いたように、「二人で勝手にやってくれ」という気分になる気持ちもよく解る。
ただ、もしかしたら、自分の身内、恋人、親友、或いは自分自身がウツや精神的な病になってしまう可能性も否定出来ません
だからこそ、もしもの時のために、当事者意識を持って考えてみましょう。
ここで、今日の参考書をご紹介!
あまりにも有名なアドラーの『嫌われる勇気』です。
もはや説明は要りませんね(笑)
大ベストセラーになっている『嫌われる勇気』の中に、僕のお気に入りの言葉がのっています。
「馬を水辺に連れて行く事はできるが、水を飲ませることはできない」
なかなか良い言葉じゃないですか?
どういう意味なのかは本から引用してみましょう!
以下、引用
子供が勉強すること。これは子供が自ら解決するべき課題であって、親や教師が肩代わりできるものではありませんでしたね
そして、介入とは、こうした他者の課題に土足で踏み込み、「勉強しなさい」とか「あの大学を受けなさい」と指示する事です
一方、援助とは(中略)、勉強は子供の課題であると理解したうえで、出来る事を考える。
具体的には、勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かって行けるように働きかける事です
いかがでしょうか?
本文のポイントは、介入と援助です。
もしかしたら、深夜にも関わらず親友の相談を聴いてしまう人は、介入しようとしているのかもしれません。
「私がなんとかしなければ!」、「あの人には、私しかいない!」
それは間違いです。
介入ではなく、援助して行きましょう。
う~ん、なかなか難しい問題です。
皆さんはどのようにお考えでしょうか?